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2020年10月18日 礼拝説教要旨

2020年10月18日

 弱いときにこそ 

三好 晴夫 牧師

コリントの信徒への手紙 二  第12章7-10節

主題聖句:なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。         

コリントの信徒への手紙 二 第12章10節

 

私たちは、自分の弱さを何とかして取り除き、強くなりたいと願っています。でも、その弱さが弱いまま、ますます衰えていくのを経験しています。今日、その弱さを受け入れて強く生きたパウロの経験から学びたい。

 

パウロの感じていた弱さとは、7節「わたしの身に一つのとげ」が与えられたことでした。それは、目の病気、緑内障ではないか、激しい頭痛ではないか。マラリヤではないかという説もあります。その「とげ」は精神的なものではなく、パウロの肉体上の故障であろうと思われます。このために彼は長い間悩まされ続けたようです。「サタンから送られた使い」とパウロが呼ぶほど、ひどく苦しいものでした。パウロはそれを離れ去らせてくださいと三度主に祈り願いました。しかし、その願い通りにはなりませんでした。

 

その時の主の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)というものでした。その意味は、あなたの病気がそのままあっても、わたしの恵みは十分ある、あなたの弱さの中でこそ、わたしの力は十分に発揮されるというのです。パウロが病気で苦しむ中において、その弱さを抱えたままの状態で、なお生きる力が与えられるというのです。この答えを聞いて彼は、自分の弱さを受け入れ、弱さの中に主が力を与えて下さると期待して、弱さを受け入れたのです。

 

実際私たちも弱さを抱えています。自分の弱さの中に、宿っておられるキリストの力にお頼りし、弱さの中にこそ強めて頂きたいものです。

2020年10月18日 日曜礼拝(音声)

2020年10月18日

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2020年10月18日 日曜礼拝(動画)

2020年10月18日

2020年10月11日 礼拝説教要旨

2020年10月11日

 信仰によって義とされる 

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第3章27-31節

        

主題聖句:では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。            

ロ-マの信徒への手紙 第3章27節

 

私たち人間は、誇りを支えに生きています。何らかの誇りがなくてはならないと思い、その誇りを生きる支えとしています。そんな大事な誇りにもかかわらず、「それは取り除かれました」と言われているのです。

 

今日の箇所に示されている「誇り」は、ユダヤ人の持つ誇りが想定されています。彼らユダヤ人は、律法を持っていること、割礼を受けていること、神の選びの民とされていることを誇りとしていました。「それは取り除かれました」と言われているのです。すなわち、誇りは外に閉め出されましたというのです。もう誇ることができなくなったのです。

 

それは、どういう方法によってそうなったのかというと、人間は律法を行うことによっては、もう神の前に義と認められることができなくなったのです。もし自分が律法を行うことができるならば、それはその人の自慢になりますが、人間にはそれができないのです。そういう方法ではなく、信仰によって、もう誇らなくてもよいようになったのです。

 

私たち人間が神に逆らい罪を犯していて裁かれてもおかしくなかったのですが、神が、私たちを裁かれるのではなく、御子キリストを私たちの身代わりにして裁かれて十字架で犠牲にされたのです。その救いの御業のゆえに、信じる者を神の前に義とされるのです。神の前に無罪とされるのです。ですから、もう自分の良き行いによって自分を誇ることはできませんが、そのように救いを成し遂げられたキリストを誇って生きるのです。

2020年10月11日 日曜礼拝(音声)

2020年10月11日

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2020年10月11日 日曜礼拝(動画)

2020年10月11日

2020年10月4日 日曜礼拝(音声)

2020年10月4日

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2020年10月4日 礼拝説教要旨

2020年10月4日

 罪を償う供え物

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第3章25-26節

主題聖句:神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。    

ロ-マの信徒への手紙 第3章25節

 

神が私たちに与えられる救いは、「義とされる」ことです。罪のゆえに滅びそうになっていた私たちを、神がキリストの贖いの御業によって償い、解放してくださったという救いです。

 

この救いの有り難さは、自分は正しい人間であり、悪い人間ではないと思っている人には分かりません。しかし、自分がいかに神から離れ、罪を犯しているか、裁かれてもおかしくない者と思う人には良く分かります。裁かれないように神は私たちを救い出してくださるからです。

 

この救いは、神の恵みにより無償で与えられるのです。ということは誰かが支払ってくださったということです。神が支払って下さったのです。「神がこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(25節)。この「罪を償う供え物」とは、「贖いの座」という意味です。「贖いの座」は、旧約時代、神を礼拝する場所であった幕屋(神殿)の中の至聖所にあって、契約の箱の上蓋に位置するところでした。そこに神が臨在されており、その場所で、大祭司が神の民を代表して、動物の血をその贖いの座にふりかけ、贖いの業を行ったのでした。その贖いの業を本当の意味で行われたのが、キリストです。キリストは真の大祭司としてご自身の血によって贖いを成し遂げられたのです。この贖いによって、私たちは裁かず無罪とされるのです。このように神がキリストを通して救いを成し遂げられたことを受け入れ信じるとき、頂くのです

2020年10月4日 日曜礼拝(動画)

2020年10月4日

2020年9月27日 礼拝説教要旨

2020年9月27日

 神の義が示された  

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第3章21-26節

 

主題聖句:ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。

ローマの信徒への手紙  第3章21節

 

「ところが今や…神の義が示されました」と3章21節の言葉が始まります。何か突然、夜が明けたような気がします。そう感じるのは、これまで読んできた1章18節から3章20節までには、夜のような暗いことが書かれていたからです。人間の罪の現実について深く掘り下げて語られていたからです。そこには、私たち人間はすべて、罪人であることが言われていました。まさに夜のような光のない状態です。

 

人間が律法によって、正しいことが何かを分かったとしても、自分の弱さのゆえに、その正しいことを自分で行うことができないのです。そのためにひどい状態になってしまい、神から裁かれても当然な状態でした。それが私たち人間の現実の姿です。

 

ところが今や「律法とは関係なく…神の義が示されました」と言うのです。これまで知られていた神の義とは、律法という、神様が人間に示された正しいことを行うことによって神の前に義とされることでした。でも、その方法では、正しいことを行おうとしても守ることができず、罪の意識が生じるだけです。ところが今や、律法とは関係なく、人間が神の前に義とされる道が示されたのです。それは、憐れみ深い神が、御子イエス・キリストを十字架につけて、私たちの負わなければならなかった罪の裁きをキリストに負わせてくださったという救いです。ゆえに、私たちは神との正しい関係に回復されるのです。この救いはキリストを信じる時に与えられます。

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